安全な食文化と北海道の写真


2013年5月の日記


 5月25日 
道東方面の仕事を終え、釧路から旭川へ帰る道中、深夜三国峠山頂で遭遇した光景。
三国峠
(みくにとうげ)は、大雪層雲峡と上士幌町を結ぶ国道273号線にある峠
最高地点の標高は
1,139mになります。
峠の下はとても前が殆ど見えない濃い濃霧で鹿の群れが活発に動き回るのでとてもヒヤヒヤしながら走りました。
頂上付近になると濃霧を突っ切り、星空がきれいにみえるようになりました。
バックミラー越しに下界をみると一面の雲海が月明かりに照らされ幻想的な光景でした。
こうした景色を前にすると、長旅の疲れも癒されます。


5月18日

函館市内の桜が満開でとても美しく咲き乱れておりました。
今日は旭川への帰り道、五稜郭に寄って桜の景色を撮影しました。
桜は見方によっていろんな見え方が違い撮り方いろいろあって難しい題材ですが、面白いです。

5月17日

函館の街はカメラをもって歩くと夢中になって撮りたくなる景色がたくさんあります。
北海道の中でも独特の雰囲気をもった街だと思います。
今日は仕事が終わってから立待岬方面に行き、函館山からの眺めや教会や古い家並みのある街を
撮り歩きました。
函館山からの景色は、立待岬のほうから山道を歩いて撮影ポイントを探し撮影。
春の命の息吹をたくさん感じる事ができました。


5月15日 「青島の思い出」の続き

最近、異文化を知る、というのは人生においてとても貴重なことだと思うようになった。
それはこの国にいても手軽に様々な国や文化の情報にアクセスしやすい環境になっているから、そこに自分の興味や価値観にあう
文化がどこかにあるのではないかと想像しやすくなったせいもある。
また地域の経済が隣の国々と密接につながっていることを身近に実感できることが多くなったことは、それだけ情報ネットワークが世界を広げている
のだと思います。
そういう中にあって、手の届く地域だけに留まって身動きしないのは、なんとももったいないという思いがします。
中国駐在の経験は、人生において自分の価値観を大きく変えたものでした。

 


5月11日 「青島の思い出」の続き

中国での生活-----------

青島市は、山東省に位置する主要な港湾都市です。

戦時中はドイツや日本の占領下にあった歴史もあるので、郊外の町並みの景色などは大連や北京、南の都市部にはみられないヨーロッパ風の建築が目立ち
古い中国の文化や西洋の雰囲気がいりまじった独特の町並みです。
2008年には夏季オリンピックが開催され、毎年、大きな食品展示会なんかも開催され世界中から業界関係者が青島に集まる。
国際色が強い街なので街の中心街には常にいろんな国の外国人の姿が目についた。
青島市は人口800万人ほどの街で日系企業も多いので僕と同じような駐在の日本人も多い。
空港の国際線の出口には毎日、日本人の到着を出迎える企業関係者の姿を多く見ました。
でも青島は駐在や観光する日本人の割合よりも圧倒的に韓国人が多い。
なので日本人が多い大連に比べると片言でも日本語を話せる現地の中国人は圧倒的に少ない。
中国語がまったく話せない者にとってはとても不便さを感じる街です。
また山東なまりというのがあって、標準北京語だけしか知らないと街の人の会話が何を話しているのか聞き取れないことも多い。
僕も慣れるのに1年くらいかかりました。
 
僕は青島で資本提携した出資会社の指示で、日本向け水産食品の工場立ち上げと工場管理 、品質管理、輸出管理の仕事をしていた。
青島市の中心街から車で40分ほど離れた空港近くの郊外に開発区と呼ばれる水産加工工場や調味工場、衣服工場が密集している地域があって、
僕は毎日その開発区の水産工場に会社の乗り合い送迎車で通勤していた。
仕事は朝8時から夕方5時までだったが、通勤時間を加えると朝は9時、家に帰るのは結局6時くらいになった。
 
駐在1年目の秋まで僕は同じく駐在で現地にきていた4人の同僚とともに市内の中心街にあるホテル住まいをしていたが、出資会社の指示で中心街から少し離れた下町にある民間アパートに入って生活することになった。
しかし、この話しが持ち上がったとき、同僚の日本人の混乱ぶりはひどく、まるで詐欺にでもあったような慌てぶりだった。
彼らは中国語が話せないこともありホテルを出てアパートで自炊することをとても嫌がった。
だから決まっている方針にも関わらず、4人で出資会社の本部の責任者に、日本人がアパート住まいするリスクや不便さをネチネチ書き連ねた要望書を連名で書いて提出したり、ホテルから出る瀬戸際まで交渉だなんだと悪あがきしていた。
僕はむしろ一刻も早くホテルを出て下町のアパートに入って自炊することを楽しみにしていたので彼らとはいっしょに行動しなかった。
彼らは毎夜、ホテルのレストランで訳の分からないミーティングをしていたが、僕は彼らに声もかけず横を素通りしていた。
そんな様子を遠巻きに眺めて「おまえら早く日本に帰れ、、」と思っていた。
「今日、みんなで本部事務所に行って、俺たちがホテルに残れるよう交渉してくる、、」
「あ、そう、、俺は工場に行って仕事するから」
 
そんな雰囲気だったからホテルに残りたいグループとアパート住まいしたい者との対立が生まれ、僕と彼らは険悪な雰囲気になっていった。
ホテルに残りたいグループの日本人の中には、日本国内の組織では幹部役員がいて彼が当初は駐在事業責任者だったものだから、
現地責任者グループに一人で敵対するような形になった。
しまいに「あいつのせいで俺たちがホテルから出なけりゃならなくなった、、、」などと妙な陰口を言われるようになった。
翌年、ホテルに残りたいグループの日本人と現地責任者の4人は駐在の仕事を解任され年明け早々日本に送還された。
2年目から僕が現地事業の責任者として、もう一人現地の生活に馴染めそうな同僚とともに残ることになった。
 
中国事業の責任者になった僕の主な仕事は、一言で言えば「日本向け水産食品の来料加工と、輸出管理」となります。
「来料加工」とは、日本にある当時僕の在籍した会社の名義で仕入れられた水産原料を中国の保税倉庫に保管し、それを東京本社からの販売計画に基づいて中国国内にあるいくつかの大きな水産加工工場で加工し、日本に輸出する仕事でした。
保税原料での加工となるため、大きな物量の原料を持つ事で、安い加工費と輸送費を載せても日本国内で販売しても計算上は圧倒的に有利な条件の価格で販売できる計画だった。
こうまとめてしまうと簡単ですが、現実はそう簡単ではなかったです。
 
一年目の中国事業の立ち上げメンバーが毎月80トンの製品を生産し、毎週20フィートのコンテナ(18トン)を月に4本、日本に輸出するという大風呂敷を広げ散々お祭り騒ぎした後だったから、二年目に僕が現地の責任者になった当時は、日本にいる無能な営業マンが売り残した大量の在庫品を現地の同列の企業に転売するということも通常の業務に付随してきて、大変な想いをしていた。
売り余した大量の製品在庫の山、資材や調味の山をみていて、日本人の無責任さに同じ日本人として恥ずかしい想いをした。
僕はもともと1年目は中国工場の品質管理や衛生管理の技術担当として赴任していたので、急な展開にとても戸惑いました。
しかし、現地における状況はそんな言い訳は許される筈も無く、二年目から現地責任者となった僕は、大風呂敷を広げた日本人たちの尻拭いをやることになったのです。
その頃に僕は彼女と出会い、交際しはじめました。
 
残っている原料は無駄無く現地で加工し日本に輸出する。これは当然のこととして、
問題はお祭り騒ぎの後、使える当てのない膨大な包装資材、梱包資材や調味料の山(コンテナ2台分)、それを知りながら見ないふりをしている当事者達、
その山を見たとき、僕はその当事者達の住む千葉県のご自宅に着払いで全部送って差し上げたかったのですが、そうも出来ず、
結局、中国国内を方々まわって半分くらいを処分しました。
日本人たちが売り余した製品在庫も、内価(増値税をつける※日本の消費税みたいなもの)になおして中国国内の水産工場に方々売歩きました。
売る以外にも、手持ちの在庫原料を加工して付加価値を生むような新たな業務開拓もしていました。
そう青島から大連、水産工場の多い山東省の海岸沿いの街に出張することも多かったのです。
当時、僕にはそうした出張や商談時に2名の中国人スタッフの女性が常時に随行していました。
地方に何日か出張するときは常に彼女たちといっしょでした。
二人の主な目的は、商談時のデリケートなやり取りの際は僕の中国語ではだめなので、その際の中国語通訳と、
僕の商談の様子を確認し本部に報告する役だったはずです。
それはとても重要な役割だったと思うし、僕もそれで随分助けられた。
だから、彼女たちの出張や移動経費は僕が立て替えて、日本に帰国したときにそれをまとめて清算するということをしていた。
ところが、この経費については日本と出資会社の間で明確にルール付けができておらず、清算分が満額もらえないことも多々あった。
中国側の出資会社にしてみれば、そもそも日本の大風呂敷連中の尻拭いの経費をなんで我々が、、という思いもある。
また、転売で消化できたとしてもやはり多少足が出る売り方でなければまともに売れない。
互い誰が悪い彼が悪いと言い合っていても在庫品はなくならないのでこれは現地にいる者がなんとかするしかない。
そんな状況が背景にあるので、僕は彼女たちに協力してもらって気持ちよく仕事をしてもらう必要があったから、自腹でまかなう事も仕方なかったと思っていた。しかし、3人で地方に出張すれば3人の宿泊費や食事代、交通費なんかで5000元(7〜8万円)くらいの経費はかかっていたので、そのことを庞倩に愚痴をこぼしたら、たいへんだった。
「それはおかしいでしょ、、彼女(僕のスタッフ)たちは自分たちの経費は自分たちでもらうべきでしょなんであなたが払っているの!?」
と強い剣幕で怒りだした。
 
そして、次にまた3人で地方に出張したとき、僕に随行しているスタッフがなんだかいつになくよそよそしく、
僕にお金を使わせまいと気遣っていた。
食事のときも、いつもは自動的に僕に伝票がまわってきたけれど、その時は
「今日は私たちが払います、、当然なことですから、、」などとトボケたことを言い始めた。
「どうしたの?いいよ、俺が払うから、」というと
「いいえ!私たちの経費ですから!」
などという。
そして移動の社内やホテルなんかでもどこか態度が他人行儀になっているので、その変わり様がとても不自然だったので、
さてはこの二人、庞倩にドヤされたのではないか、、?と感じ始めた。
それで、何かあったのかとあらためて二人に尋ねた。すると、
 
「部長(当時僕はそうよばれていた)は私たちの事が嫌いでしょう。」
「何を言う!、、嫌いなわけないだろ」
「庞倩に私たちの悪口言ったでしょ、ひどいね」
「悪口なんか言ってない、、経費が辛いと独り言を言っただけだ、それを彼女がたまたま横で聞いて、、」
「嘘!そんなはずないでしょ、もういいです、私たち今度から自分の経費は自分で払いますのでお気遣い無く!」
そういって二人はむくれた。
予感は的中。どうやら、何日か前に庞倩(彼女)に出張時の経費のことを愚痴ったら、怒った彼女はその後、僕の女性スタッフに直接電話し文句を言ったようだった。僕の若い女性スタッフも庞倩(彼女)のことをとても恐れていて、庞倩の一喝で仔猫のようになっていた。
そんな二人をみていて、僕はあらためて彼女の凄さを思い知った。
僕も彼女に「バカじゃないの」と散々怒られたが、でも、おかげさまで、その後、なんでもかんでも僕がスタッフ二人の経費を立て替えることは無くなりました。
それで内心ほっとしていました。
ありがとう。
でもあのとき、あなたの行動力に圧倒され、驚いていたのです。
でもそれもこれも僕が無知だったから仕方ないのですよね。
その節はお手数おかけしました。
 
-----------------------

5月10日 「青島の思い出」

庞倩へ

ここに書いていることは、時系列が多少前後していることもあるかもしれませんが、
最近、年相応に物忘れが激しくなってきているのと、なにぶん8年前の記憶なので、その辺は割り引いて読んでほしいのです。
でも大事なことはきちんと大切に覚えています。
あなたと出会ってからいろいろありましたが、きちんと自分なりに整理し、誤解があったところや反省すべきことはきちんと
書いておきたいと思いました。
 
この写真を彼女からもらったのは6年前、僕が中国から帰国してまもなくの頃だった。
送ったカメラでたまに写真をくださいと言ったら、この写真がきた。
この写真は、僕と出会う随分前の写真ですね、とても若すぎる。
でもあなたの内面が良く出ている写真なので僕はとても好きです。
 
実は彼女のこの表情をみてとても驚いた。
帰国してから、こんな表情をする女性だったのだとあらためて思った。
 
8年前、僕は仕事の関係で中国青島に駐在するために赴任した。
赴任し1年が過ぎたころ、現地にある何社かの企業とも関わるようになり、
彼女はその中で日本人が経営する小さな貿易会社の社長秘書をしていた。
 
---出会い---
現地の生活に慣れ、現地の日本人会にも入り、そこで知り合った駐在仲間がよくその貿易会社の社長秘書の女性のことを話題にしていた。
日本人会の連中はほとんどが中国語を話せない者が多かったため彼女のことを「ゆき」と呼んでいた。
これは日本人が慣れ親しい名前で、あだ名のような感覚だった。
でも僕は彼女がそう呼ばれていることに違和感を感じた。
彼女は大学を卒業後、日本語検定一級の資格ももっていて青島市内にある日系商社に勤めていた。
そこに出入りする社長に秘書として引き抜かれた経歴だった。
 
日本人たちがいつも話題にする”ゆき”は、他の若い中国人女性のことを軽々しく噂するような対象ではなく、抜き差しならない目の上のタンコブのような存在で、日本人仲間からの評判はあまり良くなかった。
それは彼女が非常に現実主義で現地のいろんな日本人のだらしない面と長年接している経験から、日本人の無防備な行動や仕事に対し躊躇なく核心をあけすけなく口に出していう女性だった。それがビジネスのやりとりの場では強かったのだと思う。
彼女の言う事はいちいちがもっともで、とても的を得ているので言われた側は身もふたもない様子。
それは自分の会社の社長であろうと、社長の友人であろうと変わらなかった。
 
毎日毎日、お客さんの接待と称して個人もプライベートもごっちゃにして遊興費を会社の経費で落としているいる社長に対し、
日本人なら、何も言わずシグナルを送るか、或は「社長は夜も忙しくて大変ですね、、」くらいにしか言わない。
しかし彼女は、
「こんな経費、会社の経費として認められる訳ないでしょ、今に国税局に摘発されますよ!いい加減にしてください」とずばっという。
そんなふうに畳み込まれたら、社長はせいぜい
「俺は社長だ、なんとかしろ!」
と言い返すのが精一杯。なんとも情けない限りです。それでも裏でなんとかしている彼女。
そんな調子だから、彼女の社長も”ゆき”のことを頼りにしつつもどこかいつも警戒しているような印象だった。
 
そんな彼女とはじめて会ったのは、仕事のつながりで、彼女の社長とその関係業者の人たちにお酒の席に呼ばれて行った時、そこに社長秘書として同席していたときだった。
ふだん彼女の噂を散々聞いていたから、顔はみたことなかったけれど一目、その同席の女性が噂の”ゆき”であることがわかった。
 
彼女は飲み会の席でもテキパキと業者の接待をしていた。
そして接待をしつつも、どこかその場をうまく仕切り、盛り上げていた。
いつも酒に酔うと大トラになるその社長も、酒の彼女の前では行儀よくしているのがわかった。下手なことをすればあとで何こそ言われるかという想いもあったのだろうと思う。
接待される側も、”ゆき”の仕切りに安心してその場を任せているようだった。
彼女は日本語も堪能で、日本人が経営する貿易会社の現地のあらゆる実務を一人でこなしていた。
商取引やお客さんとの交渉、法人登録や税務、従業員の雇用に関する庶務、給与管理、販売管理実務、、ほか現地では何もできない社長のプライベートな生活面に関する世話までも彼女がこなしていた。
 
彼女の社長も、中国における現地のあらゆることを器用にこなしてくれる彼女に甘えきっている様子で、
もし彼女が病気で倒れてしまったら、仕事も生活もなりたたなくなってしまう。
そんな状態だから、当然秘書である彼女は、常に社長のお金の使い方や遊び方、生活態度のことについても事細かくうるさく言わざるをえなかった。
社長にしてみれば、会社の秘書でありながら現地の若い女房くらいに思っていたのだろうと思う。
後々、僕はそんなふうに彼女を使うその社長に不快感を覚えていった。
 
その席で、社長はおおむろに彼女を呼び、"僕の秘書のゆき"ですと僕に紹介した。
彼女は僕をチラッっとみて簡単な挨拶をしただけだった。その場で彼女とゆっくりと話すことはできなかった。
ところどころ合間に彼女と話しをしたけれど、その場でどんなことを話したのか、もう忘れてしまったがそれほど記憶にのこる会話はしていない。
彼女も僕のことを気に留めるような日本人ではないという素振りだったから、僕から彼女と積極的に話しをしようとは思わなかった。
その夜は、僕は日本人が噂する評判の"ゆき"と面識をもっただけで終わった。
そして、彼女は現地の日本人が簡単に名前を呼べる女性ではないことを知った。
 
その後、彼女の会社とも少し取引があり、何度か社長と夕食をいっしょに食事をする機会があった。
そういう席には必ず彼女が同席していて、昼間会う機会が増えた。
 
彼女の社長とも懇意になり、二人でよく飲みに出るようになった。
しかし、そのことも彼女は快く思っていない様子だった。
ある日、何かの場で食事をいっしょにした際、彼女は僕にこう言ってきた。
「●●さん(社長)といっしょに遊ぶのは良くないからやめたほうがいい、、」
 
いつしか、そんな会話もできるようになった。
そして僕はあらためて彼女の名前が知りたくなって、きちんと尋ねてみた。
 
「あなたの中国の名前はなんというんですか?」
「たぶん読めないですよ。」
「いいから教えて、、」
「庞倩(Pang Qian)といいます。難しいでしょ、普通の日本人は読めないから”ゆき”と呼ばせているの。
でもこの”ゆき”という名前、私そんなにきらいじゃないからそう呼ばせているの、わかりやすいでしょ」
 
確かに、中国で彼女の名前はめずらしい、
一般的に「張」「王」「李」という名字はめずらしくないですが「龍」の字がつく名字の人は始めてだった。
しかも発音も難しい。中国語をしっかり勉強していない日本人には絶対に覚えられない名前だった。
 
しかし、現地に駐在する日本人の語学水準や行動パターンから、彼らの好きそうで覚え易い名前を呼ばせている彼女に、それまで接した中国人女性にない凄みと賢さを感じた。
 
僕はそんな彼女に興味をもつようになり、積極的に彼女と接する機会をつくっていった。
そして時間があるときは個人的に食事や買い物に誘うようになった。
いつも社長の世話や仕事で忙しい彼女は休日や時間のくぎりがなく、休日でもお客さんの接待や仕事で呼び出されている様子だった。
そんな合間に僕との時間をつくってくれた。
食事する場所は、僕は現地の日本人仲間に教えてもらった安い中華料理や日本料理屋に誘ったり、とても安い買い物ができる下町の商店街に誘ったりした。
僕は日本人仲間から紹介されて覚えた料理店を彼女に自慢げに紹介するけれど、彼女の反応はいつも悪かった。
彼女はよくこういった。
「●●さんに教えてもらったんでしょう、、そこは良くないよ、美味しくないし、私が案内するから」
と自分の知っている食事の店に連れて行ってくれた。
確かに、そうして彼女に案内される店は美味しい料理だった。店内もどこか中国らしくなく高級感のあるシャレた感じの店だった。
メニューもけっこう高い。
そんな店の多くは現地にいる日本人があまり行くところではなく、店内の客層も現地の富裕層の客の多い店だった。
 
買い物なんかも僕は100元札一枚でいろんな物が買えて、何を売っているのかわからない出店ががごちゃごちゃ軒を連ねてるような場所が好きだった。
なんでもあるようで、そんな賑やかななところが中国らしくて楽しかった。
でも彼女はそういうところにいくことをとても嫌がった。
 
「あんなところになんで行くの、、危ないし、汚いでしょ、」
 
それでも、強引に行くというと彼女は僕のサポート役にまわって僕が損をしない買い物をサポートしてくれた。
ただし、お土産なんかで損をしないようにし、その分ちゃっかり自分の物も僕に買わせた。
そんな彼女がいとおしくも、頼もしく思えた。
 
食事や買い物など日常生活の何気ないことに安さや雑さばかり求めるのは確かに気楽なことであるけれど、
現地で暮らす多くの日本人がそうであるよう、そんなふうにしていると、考え方も習慣もどんどんその水準あわせて低下していく。
それがある意味、身を崩すきっかけだったりする。
だから常に高級で品質の良い、高い水準のサービスや料理にふれていないといけない、
たぶん彼女はそんなふうに思っていたんだろうと思う。
また、それが中国の貧富の明確な境界線でもあった。
 
駐在一年目の僕にとって青島の街は、僕の知らないいろんな誘惑や危険が沢山ある。
日本人同士の関わり方についても十分注意が必要が必要で、なんでも現地の仲間の付き合いだといっしょに行動をしていると
思わぬトラブルにまきこまれることも多い。
日本人同士だからこそ、本当は交流範囲をよく選ばなくてはならない。
特に、外国人としての日本人が、赴任地の中国で身を崩して帰国できないでいる日本人を多くみてきている彼女にとって、長く駐在する日本人のだらし無さは日本に対する失望そのものだったと思う。
だから、赴任したばかりの僕にはそうなってほしくないと思っていたと思う。
中国で暮らす僕は、ある意味彼女にとっては何もわからない幼児と同じなのだと思った。
 
僕はそんな彼女を心の中で尊敬し、深く彼女と関わっていきたいと思った。
僕にとって、彼女は駐在仲間の噂に出る口うるさくて生意気な”ゆき”ではなく、
それは言葉には言えなかったけれど、現地で接する中国人女性の誰よりも魅力を感じ、日本人女性にはない深い人間味に魅かれて行った。
 
駐在一年目の暮れ、夕方仕事を終えてから僕は街の中心にある大きな書店のバス停の前で彼女と待ち合わせた。
バスから降りてきて僕の所にかけよってきた彼女に、僕は歩きながら、「僕の彼女になってほしい、、」と言った。
彼女は息をこらしながら少し微笑んで小さく、うなずいた。
そうして彼女との交際がはじまった。
 
青島の生活
青島は人口が800万人くらいで大連や北京と比べると小さな小都市の街だった。
 
----------------------------------------------------------------------

5月4日

先月からレストラン関係の仕事も受け持つようになる。
実際やってみて、まだ入り口ではありますが、非常に大変な範囲の仕事をうけもってしまったと感じるようになりました。
何より、連休はどこも過密状態な忙しさで、なおさら気を抜けない。
なのでこちらも連休だからと遠巻きに見ている訳にも行かず、休日返上での対応が求められる。

今日は午前中まで旭川で仕事をし、午後、急遽千歳空港のレストランに移動。
慌ただしい一日だった。
---------------------------------------------------------------------


5月1日 Facebookについて

4月に入り、いろいろな人との出会いがあり若い世代の人たちと面識をもつ機会も増えました。
若い世代の新入社員、、関係会社の新しい同僚、、
ただ、そんな新しい出会いで接する人たちには共通に以前はみられなかった仕草、挙動が目につきます。
歓迎会や食事の場、どんな場でも皆一様にスマホをテーブルの下や膝元において、あるいは手に持って、常にそれをどこかチラチラ見ながらの会話があたりまえになってる。
遠巻きに眺めると見慣れたFacebookのタイムラインの画面を開いている。
Facebookが異様に普及していることを知ります。
 
自分はもう2ヶ月前にやめているのでFacebookには興味なくなりましたが、
若い世代、特に18、9の世代はこのFacebookに四六時中束縛されているのではないかと不安に感じます。
地方で出会った若い19歳の女性、何かの宴席の場で、周囲の同僚や上司に気を使うどころかずっとスマホの中のFacebookの友達とのやり取りが忙しく、現実の世界には振り向く気配もないので話しかけるのをやめました。
 
自分もそうだったからわかるのですが、皆どこに行くにも手の中の小さなスマホの中にバーチャルの友人達を沢山詰め込んで一緒に連れて歩いている。
いないと不安にすら感じているのでしょう。
そのスマホの中の小さな沢山の友達の会話や連帯感に四六時中共有し、その世界と目の前の現実の世界を行き来しているのです。
終いにはどっちが現実なのか訳が分からなくなっていr。
 
そんな状態の人に何かを話しかけても「はい、頑張ります、、凄いですね、ありがとうございます、、」
とどうでもいい返事が返って来る。
明らかに現実の目の前の人間との会話には脳を使っていなく、スマホの中のアイコンの友達との会話に頭を使い切っている様子。
目線は常に膝元に置いたスマホの中にあり意識はスマホの中のFacebookにあるのがわかります。
だから、そんな彼らを無理矢理現実の世界に引きずり出そうとすると大きなトラブルを招く危険があります。
仮想世界に居る人に下手に関わると熟睡中に夢を見ている人の睡眠を邪魔をするようあものなので、危ないのです。
でも自分も常にそうだったように思うのです。
彼らをみていると、まるでついこの間までの自分をみているようでした。
 
・自分のウォールに誰が何人”いいね”をしてくれているのか、、
・友達リクエストは承認されたか?あるいはリクエストは何件来たか?
・自分のウォールにどんなコメントが書き込まれているのか
・あの人とこの人が「いいね」をしているなら僕も「いいね」をしなければ、、
・自分とあわない友達をいつ切ろうか、悩みだす
・この情報は隠さなければ、
・この人とあの人にはこの情報は見せたくない、、
・こんなこと書かれている、これはなんとかしなければ。
・この友達の記事を毎日見るのは辛い。めんどうだ。
・自分のコメントになんで返信をくれないのだろうか、、
・朝、どんなコメントが入っているのか気になってしまう。
・あの人の手前、この友達は切ってくださいと電話まで入る。
・自分の考えに賛同がえられないことに免疫が無くなり批判が怖くなる
・Facebookの友達の輪を乱さず、標準的で誰にでも良い人間であらねばと思うようになる。
・常に誰かと自分を比較してしまう。
 
などなど、これは僕が実際に陥った症状です。
これが異常だと気がつかなければ僕は自分が崩壊していたでしょう。
Facebookをやればやるほど、自分が殻に閉じこもった自閉症に陥っていることに気がつかなくなっている。
当時の自分のことを正直に言えば、Facebookをやっているとき、仕事は二の次でした。
仕事や現実の世界、身の回りのこと、足下のことは気にならない。
Facebookの世界に浸っているときはその時間を遮るあらゆるものが鬱陶しくなる。
友達の数やコメントの数、友達リクエストの数がまるで自分の価値を推し量る物差しのように思えて来る。
 
ある朝、寝起きにPCを立ち上げ、Facebookの画面を眺めていて、ふと自分が崩れて行くような怖さを感じFacebookをやめました。まるで夢から目が覚めるようでした。
 
Facebookは普通に生活していれば接することができない部類の人たちと気軽に仮想の友達関係をもつことができる。それはそれでとても面白いこと。
また、田舎と都会の距離を縮めてくれる。
しかし、そもそもそんなふうにいつでも時間と距離を縮め、多くの人と沢山出会い続ける必要があるのだろうかと思う。いろんな考えを常に与えられ、求め続ける必要があるのだろうか、、という疑問もわいて来る。
人間とはそもそも、遠い街の知らない人がどんな暮らしをし文化があるのか、普段の中では想像するのが健全なのではないかと思います。
もしどうしてもそこに触れたくなったら、お金をためて良いカメラをもって自分でそこに行って触れてくれば良い。そういう時間の流れが生来持った自然な時間なのでは、と思うのです。
また、Facebookをやめてみると、やらなければならない目の前の現実が途方も無くあることに戸惑う。
今までいろんなことが見えてなかった自分を苛む。
2年もの間Facebookに浸っていて、僕は多くの事を見失っていたんだという現実をつきつけられる。
仕事のこと、家族のこと、現実の世界の中の人間関係、
そういうひとつひとつと向き合っていると、いままでFacebookと向き合っている時間がいかに大きい物だったかを知る。Facebookの友達の発言や発信に気を取られている暇がないことにあらためて気がつきます。
 
桂文珍の新作落語にインターネットに振り回される中年サラリーマンの話しが出てきます。
「まあ気持ちはわかるけど、あんたモスクワの天気わかってもしゃあないやろ、それよりもヨメはんの機嫌のほうが大事やね」
複雑な情報に振り回されて足下が見えなくなっちゃいけないよ、そんな現実に苦悶する中年男性を面白く落語にしています。
 
今の若い人は様々に発達した情報ツールに便利さを享受しながらも、どこか自分のアナログ的な人間味や本当の価値を見失っているような、そんな犠牲を知らずに強いているように思えるのです。
四六時中Facebookに意識が傾いている中では10代、20代の貴重な時代に経験し学ぶことの多くを犠牲にしているように思います。
あれじゃあ何にもできない、、
Facebookは月に一度か二度、みんなどうしているかな、、、程度に眺めるのが適切なんだと思います。
若い働き盛りの若い人たちが、あれを四六時中やっていたら、人生の貴重な時間も自分の価値も、自分のチャンスも、いろいろ多くを失います。
 
僕の場合、自分のペースで趣味のホームページを作っているのがちょうど良い。
Facebookもツイッターも、現実と仮想のコミュニティーとの距離を適度に保って、ほどほどにしないといけません。
 
また僕がFacebookをやめて一番メリットがあったと思うのは、
なによりもスマホのバッテリーがとても長持ちし、いろんな音楽や落語が聴けて、近親者との会話ができうように
なったことです。
また、いろんなスマホ用の補助バッテリーや充電器を持ち歩く煩わしさからも解放されました。
これは実にすばらしいことだと思っています。(^^)