ここに書いていることは、時系列が多少前後していることもあるかもしれませんが、
最近、年相応に物忘れが激しくなってきているのと、なにぶん8年前の記憶なので、その辺は割り引いて読んでほしいのです。
でも大事なことはきちんと大切に覚えています。
あなたと出会ってからいろいろありましたが、きちんと自分なりに整理し、誤解があったところや反省すべきことはきちんと
書いておきたいと思いました。
この写真を彼女からもらったのは6年前、僕が中国から帰国してまもなくの頃だった。
送ったカメラでたまに写真をくださいと言ったら、この写真がきた。
この写真は、僕と出会う随分前の写真ですね、とても若すぎる。
でもあなたの内面が良く出ている写真なので僕はとても好きです。
実は彼女のこの表情をみてとても驚いた。
帰国してから、こんな表情をする女性だったのだとあらためて思った。
8年前、僕は仕事の関係で中国青島に駐在するために赴任した。
赴任し1年が過ぎたころ、現地にある何社かの企業とも関わるようになり、
彼女はその中で日本人が経営する小さな貿易会社の社長秘書をしていた。
---出会い---
現地の生活に慣れ、現地の日本人会にも入り、そこで知り合った駐在仲間がよくその貿易会社の社長秘書の女性のことを話題にしていた。
日本人会の連中はほとんどが中国語を話せない者が多かったため彼女のことを「ゆき」と呼んでいた。
これは日本人が慣れ親しい名前で、あだ名のような感覚だった。
でも僕は彼女がそう呼ばれていることに違和感を感じた。
彼女は大学を卒業後、日本語検定一級の資格ももっていて青島市内にある日系商社に勤めていた。
そこに出入りする社長に秘書として引き抜かれた経歴だった。
日本人たちがいつも話題にする”ゆき”は、他の若い中国人女性のことを軽々しく噂するような対象ではなく、抜き差しならない目の上のタンコブのような存在で、日本人仲間からの評判はあまり良くなかった。
それは彼女が非常に現実主義で現地のいろんな日本人のだらしない面と長年接している経験から、日本人の無防備な行動や仕事に対し躊躇なく核心をあけすけなく口に出していう女性だった。それがビジネスのやりとりの場では強かったのだと思う。
彼女の言う事はいちいちがもっともで、とても的を得ているので言われた側は身もふたもない様子。
それは自分の会社の社長であろうと、社長の友人であろうと変わらなかった。
毎日毎日、お客さんの接待と称して個人もプライベートもごっちゃにして遊興費を会社の経費で落としているいる社長に対し、
日本人なら、何も言わずシグナルを送るか、或は「社長は夜も忙しくて大変ですね、、」くらいにしか言わない。
しかし彼女は、
「こんな経費、会社の経費として認められる訳ないでしょ、今に国税局に摘発されますよ!いい加減にしてください」とずばっという。
そんなふうに畳み込まれたら、社長はせいぜい
「俺は社長だ、なんとかしろ!」
と言い返すのが精一杯。なんとも情けない限りです。それでも裏でなんとかしている彼女。
そんな調子だから、彼女の社長も”ゆき”のことを頼りにしつつもどこかいつも警戒しているような印象だった。
そんな彼女とはじめて会ったのは、仕事のつながりで、彼女の社長とその関係業者の人たちにお酒の席に呼ばれて行った時、そこに社長秘書として同席していたときだった。
ふだん彼女の噂を散々聞いていたから、顔はみたことなかったけれど一目、その同席の女性が噂の”ゆき”であることがわかった。
彼女は飲み会の席でもテキパキと業者の接待をしていた。
そして接待をしつつも、どこかその場をうまく仕切り、盛り上げていた。
いつも酒に酔うと大トラになるその社長も、酒の彼女の前では行儀よくしているのがわかった。下手なことをすればあとで何こそ言われるかという想いもあったのだろうと思う。
接待される側も、”ゆき”の仕切りに安心してその場を任せているようだった。
彼女は日本語も堪能で、日本人が経営する貿易会社の現地のあらゆる実務を一人でこなしていた。
商取引やお客さんとの交渉、法人登録や税務、従業員の雇用に関する庶務、給与管理、販売管理実務、、ほか現地では何もできない社長のプライベートな生活面に関する世話までも彼女がこなしていた。
彼女の社長も、中国における現地のあらゆることを器用にこなしてくれる彼女に甘えきっている様子で、
もし彼女が病気で倒れてしまったら、仕事も生活もなりたたなくなってしまう。
そんな状態だから、当然秘書である彼女は、常に社長のお金の使い方や遊び方、生活態度のことについても事細かくうるさく言わざるをえなかった。
社長にしてみれば、会社の秘書でありながら現地の若い女房くらいに思っていたのだろうと思う。
後々、僕はそんなふうに彼女を使うその社長に不快感を覚えていった。
その席で、社長はおおむろに彼女を呼び、"僕の秘書のゆき"ですと僕に紹介した。
彼女は僕をチラッっとみて簡単な挨拶をしただけだった。その場で彼女とゆっくりと話すことはできなかった。
ところどころ合間に彼女と話しをしたけれど、その場でどんなことを話したのか、もう忘れてしまったがそれほど記憶にのこる会話はしていない。
彼女も僕のことを気に留めるような日本人ではないという素振りだったから、僕から彼女と積極的に話しをしようとは思わなかった。
その夜は、僕は日本人が噂する評判の"ゆき"と面識をもっただけで終わった。
そして、彼女は現地の日本人が簡単に名前を呼べる女性ではないことを知った。
その後、彼女の会社とも少し取引があり、何度か社長と夕食をいっしょに食事をする機会があった。
そういう席には必ず彼女が同席していて、昼間会う機会が増えた。
彼女の社長とも懇意になり、二人でよく飲みに出るようになった。
しかし、そのことも彼女は快く思っていない様子だった。
ある日、何かの場で食事をいっしょにした際、彼女は僕にこう言ってきた。
「●●さん(社長)といっしょに遊ぶのは良くないからやめたほうがいい、、」
いつしか、そんな会話もできるようになった。
そして僕はあらためて彼女の名前が知りたくなって、きちんと尋ねてみた。
「あなたの中国の名前はなんというんですか?」
「たぶん読めないですよ。」
「いいから教えて、、」
「庞倩(Pang Qian)といいます。難しいでしょ、普通の日本人は読めないから”ゆき”と呼ばせているの。
でもこの”ゆき”という名前、私そんなにきらいじゃないからそう呼ばせているの、わかりやすいでしょ」
確かに、中国で彼女の名前はめずらしい、
一般的に「張」「王」「李」という名字はめずらしくないですが「龍」の字がつく名字の人は始めてだった。
しかも発音も難しい。中国語をしっかり勉強していない日本人には絶対に覚えられない名前だった。
しかし、現地に駐在する日本人の語学水準や行動パターンから、彼らの好きそうで覚え易い名前を呼ばせている彼女に、それまで接した中国人女性にない凄みと賢さを感じた。
僕はそんな彼女に興味をもつようになり、積極的に彼女と接する機会をつくっていった。
そして時間があるときは個人的に食事や買い物に誘うようになった。
いつも社長の世話や仕事で忙しい彼女は休日や時間のくぎりがなく、休日でもお客さんの接待や仕事で呼び出されている様子だった。
そんな合間に僕との時間をつくってくれた。
食事する場所は、僕は現地の日本人仲間に教えてもらった安い中華料理や日本料理屋に誘ったり、とても安い買い物ができる下町の商店街に誘ったりした。
僕は日本人仲間から紹介されて覚えた料理店を彼女に自慢げに紹介するけれど、彼女の反応はいつも悪かった。
彼女はよくこういった。
「●●さんに教えてもらったんでしょう、、そこは良くないよ、美味しくないし、私が案内するから」
と自分の知っている食事の店に連れて行ってくれた。
確かに、そうして彼女に案内される店は美味しい料理だった。店内もどこか中国らしくなく高級感のあるシャレた感じの店だった。
メニューもけっこう高い。
そんな店の多くは現地にいる日本人があまり行くところではなく、店内の客層も現地の富裕層の客の多い店だった。
買い物なんかも僕は100元札一枚でいろんな物が買えて、何を売っているのかわからない出店ががごちゃごちゃ軒を連ねてるような場所が好きだった。
なんでもあるようで、そんな賑やかななところが中国らしくて楽しかった。
でも彼女はそういうところにいくことをとても嫌がった。
「あんなところになんで行くの、、危ないし、汚いでしょ、」
それでも、強引に行くというと彼女は僕のサポート役にまわって僕が損をしない買い物をサポートしてくれた。
ただし、お土産なんかで損をしないようにし、その分ちゃっかり自分の物も僕に買わせた。
そんな彼女がいとおしくも、頼もしく思えた。
食事や買い物など日常生活の何気ないことに安さや雑さばかり求めるのは確かに気楽なことであるけれど、
現地で暮らす多くの日本人がそうであるよう、そんなふうにしていると、考え方も習慣もどんどんその水準あわせて低下していく。
それがある意味、身を崩すきっかけだったりする。
だから常に高級で品質の良い、高い水準のサービスや料理にふれていないといけない、
たぶん彼女はそんなふうに思っていたんだろうと思う。
また、それが中国の貧富の明確な境界線でもあった。
駐在一年目の僕にとって青島の街は、僕の知らないいろんな誘惑や危険が沢山ある。
日本人同士の関わり方についても十分注意が必要が必要で、なんでも現地の仲間の付き合いだといっしょに行動をしていると
思わぬトラブルにまきこまれることも多い。
日本人同士だからこそ、本当は交流範囲をよく選ばなくてはならない。
特に、外国人としての日本人が、赴任地の中国で身を崩して帰国できないでいる日本人を多くみてきている彼女にとって、長く駐在する日本人のだらし無さは日本に対する失望そのものだったと思う。
だから、赴任したばかりの僕にはそうなってほしくないと思っていたと思う。
中国で暮らす僕は、ある意味彼女にとっては何もわからない幼児と同じなのだと思った。
僕はそんな彼女を心の中で尊敬し、深く彼女と関わっていきたいと思った。
僕にとって、彼女は駐在仲間の噂に出る口うるさくて生意気な”ゆき”ではなく、
それは言葉には言えなかったけれど、現地で接する中国人女性の誰よりも魅力を感じ、日本人女性にはない深い人間味に魅かれて行った。
駐在一年目の暮れ、夕方仕事を終えてから僕は街の中心にある大きな書店のバス停の前で彼女と待ち合わせた。
バスから降りてきて僕の所にかけよってきた彼女に、僕は歩きながら、「僕の彼女になってほしい、、」と言った。
彼女は息をこらしながら少し微笑んで小さく、うなずいた。
そうして彼女との交際がはじまった。
青島の生活
青島は人口が800万人くらいで大連や北京と比べると小さな小都市の街だった。